December 7, 2017

FOLKHOOD Travel
ポルトガルへの旅
2017

日本の西洋化の歴史に深く関わるポルトガル。同事期にはオランダやスペインの出入りや交流もあったにも関わらず、金平糖やボタン、カステラとポルトガル語から日本語になった言葉は、現在も数多く使われています。そして、ポルトガルにはなくなり日本に残るポルトガル語も。実は、現在も会話でよく使用される「ピンからキリまで」もこの時代に来た言葉。さて、この”ピン”と”キリ”。その言葉の由来をご存知でしょうか。
Text and Photo by Aki Tomura

海に囲まれた東の果ての島へ

文化を共有するまでの道のり

約3万5千年前の旧石器時代に人類が生活をした遺跡の残る鹿児島県の種子島にポルトガル人を乗せた中国船が漂着したのは、1543年。しかし、実はその前年に現在の沖縄である琉球王国に到着しているが、ポルトガルがマラッカを攻撃して占拠したことを知っていたことから琉球人は貿易を拒否しています。
ポルトガル人による貿易は、マカオを拠点として営まれ、重要な品物は日本の銀と中国の生糸だったと言われています。この当時の最盛期に日本は世界の銀の約3分の1を産出したとも言われています。それを支えていた産地が、「東洋一」の大銀山とうたわれ、年間産出量日本一を何度も記録した秋田県の院内銀山や、島根県の石見銀山あたりが有名でした。

ジョルジュ・アルヴァレスは1513年に初めて中国に上陸したポルトガル人で、16世紀の前~中期頃に東アジアで活躍したポルトガルの貿易商人兼船長。中国上陸から23年後の1546年の春に日本に来航し、薩摩の山川に冬頃まで滞在。
人を殺めたことに悩む日本人ヤジロウを乗せてマカオへ向かい、インドのゴアで宣教活動をしていたフランシスコ・ザビエルに引き合わせ懺悔をさせたことをきっかけに、1549年にフランシスコ・ザビエルがヤジロウと共に坊津に来日。イエズス会創設者の一人であるザビエルによるキリスト教の布教が始まり、日本の歴史は大きく変わってゆきます。
日本の教科書には、16世紀半ば~17世紀前半のヨーロッパ諸国において、王侯貴族や富裕な市民の間で流行した襞襟(Ruff)を身につけたフランシスコ・ザビエルの肖像画とともに、島原の乱までの歴史を誰もがしっかりと学ぶことから、日本で知らない人はいない人物ですが、ポルトガルでは、リスボンのヴァスコ・ダ・ガマが航海を始めた港の記念碑、「発見のモニュメント」にはしっかりと東側に宣教師として彫りこまれていますが、ほぼ無名。
それもそのはず、ザビエルは、ポルトガル王ジョアン3世の依頼で首都リスボンからポルトガルの船で布教の出航しましたが、実際は、スペインのナバラ王国生まれのバスク人でした。

ザビエルは、「この国の人びとは今までに発見された国民の中で最高であり、日本人より優れている人びとは、異教徒のあいだでは見つけられないでしょう。彼らは親しみやすく、一般に善良で悪意がありません。驚くほど名誉心の強い人びとで、他の何ものよりも名誉を重んじます」と書き残しています。以降、キリスト教の布教がおこなわれて次第に改宗者を増やしていきますが、1612年に徳川家康、1619年徳川秀忠によりキリスト教を禁止する禁教令が出されます。徳川は、貿易は必要としたが、キリスト教は無用として、1637年「島原の乱」の前後からは幕府による徹底したキリスト教を禁止し、鎮圧の1年半後にはポルトガル人が日本から追放され「鎖国」が始まり、内戦では、多くの犠牲者を出し、戦国時代以後、日本に伝来したキリスト教信者に対して改宗を拒んだ者への拷問・処刑も世界に知られることになります。
イングランド系アイルランド人の諷刺作家、スウィフトの小説、ガリバー旅行記には、「飛ぶ島(ラピュタ)」「巨人の国」「馬の国」といった架空とした物語の中に唯一実在する国として日本が登場し、「オランダ人は、キリスト教徒でありながら平気で踏絵を踏む」と書いていることから、当時のオランダ貿易の独占的行為への激しい批判や日本での状況がヨーロッパ(特に英国)内で知られていたことが伺えます。

*踏み絵とは、イエス・キリストや聖母マリアが描かれた紙や木製や金属製の板に彫られたもので、これを足で踏ませて
発見の手法として使用したもの。踏まないものはキリスト教徒として逮捕、処罰された。

スウィフトの蔵書リストにある「パーチェスの巡礼」に William Adams(1564~1620)の手紙が収録されていることから、ガリバーのモデルは、イギリス、ケント州で生まれで、1598年にオランダの東インド会社の船で日本へ辿り着き、その後の生涯を日本で過ごしたWilliam Adamsなのではという研究もあるようです。
アダムスが着いた頃の日本は、ザビエル以降の宣教師が滞在し始めて52年。ポルトガル、スペインのカトリックの宣教師達が多くおり、オランダ船に乗って来たアダムズ達のことを悪い海賊であり、すぐに殺すべきだと家康に告げたとの記録がありますが、アダムスは、12歳で造船、船大工の技術を身につけ、独学で航海術、天文学、幾何学などに精通していたことから、家康に信頼され外交顧問として三浦按針の名をもらい、武士として西洋との文化を共有するにあたり多くの業績を積んだようです。東京の日本橋室町にアダムズの記念碑が「三浦按針屋敷跡」として残ります。

日本において西洋文化が取り入れられることは、一筋縄ではいきませんでした。
種子島への鉄砲伝来から国内の内戦を終えても、その後も長く厳しい戦争への時代へ進んで行きます。そして、人類史上初、なおかつ世界で唯一、核兵器が長崎と広島へ。二発の原子爆弾が投下され、1945年に長く酷しい戦争の幕を閉じました。
どちらもフランシスコザビエルが長崎(1549年)、広島(1551年)に布教をし歴史的にも多くの信者を得たと同時に禁令・迫害・殉教の時代に多くの犠牲者を出した場所であることは偶然だったのでしょうか。
現在は、平和を祈るシンボル的な土地として宗教を問わず多くの人が世界から訪れます。
思想を共有する人間同士の祈りや良心の対話と、経済活動などを分けて考えつつ、植民地となった近隣諸国の歴史と現在などに学びながら、今後の世界平和の実現については、一人ひとりが一度は向き合い、自分の言葉を持つ必要のある課題ではないでしょうか。
学校の教科書に任せるだけではなく自分の子供との対話や質問などへは、過去へはこだわらず、偏見や差別を無くした独自の意見をそれぞれが持ち、次世代と対話ができる環境になればと願います。

日本語になったポルトガル語

写真は、ポルトガルのモナカのようなお菓子。伝統菓子ovos moles。なかは、餡子ではなく、鮮やかなオレンジ色をした卵の黄身で作るクリーム状のものが入っています。まさにその味は、ポルトガルから伝来した南蛮菓子の一つで、福岡などにも専門店のある鶏卵素麺に似ています。卵素麺とも呼ばれる鶏卵素麺は、ポルトガル語ではフィオス・デ・オヴォスfios de ovos、卵の糸という名前です。

今回のポルトガルの旅では、コンペイトウの発祥の店でConfeito(コンフェイト)を探しにコインブラへ訪れたり、日本がポルトガルからうけた影響を探してまわる旅をしました。コンペイトウは、金平糖と漢字をあて、日本のお菓子として全国に残ります。日本の金平糖とポルトガルの金平糖を比べると、ポルトガルの方が色が濃く鮮やかで不透明である事、固まりが柔らかく砂糖のざらつきがあること。日本の物は飴に近い固めで少し透明感があるものが多いようですが、京都の歴史あるお店などでは、似たサイズ、仕様の物もあり、専用の”ふりだし”と呼ばれる容器なども可愛らしく、こちらも大変美味しいものです。
Confeitoの買える店
パステラリア ブリオサ/Pastelaria Briosa
住所:Largo da Portagem, 5 3000-180 Coimbra, Portugal
HP:http://www.pastelariabriosa.com/

コインブラには、13世紀に設立された世界最古の名門大学のひとつであるコインブラ大学 (Universidade de Coimbra)があり、学内は多くの見所があります。1724年に建造された図書館、Biblioteca Joaninaの内装の美しさも必見です(要予約)。30万冊にも及ぶ蔵書があり、日本に関するものも数冊あるそうです。そして、ここで大切にされている意外な動物がコウモリ。朝、担当者が鍵を開けるころには、小さな糞が落ちていることから存在がわかりますが、昼間に出てくることはほぼないとのこと。学生の居ない夜の間に本に付く虫などを食べてくれることから、本の番人として大切にされているのだそうです。
カッパ(capa)、は、長い間、日本で雨具のレインコートをカッパと呼びました。ポルトガル語では、マントの事。コインブラ大学で学生たちが制服のマントを着て校内を歩く姿は、ハリーポッターのホグワーツのような雰囲気です。そして、このマント。女子学生が好きな男子のマントの裾を引き裂くという風習があり、恋人がいる人も裾を少し破く伝統があるのだそうで、裾が破けてボロボロなほどモテる証拠なのだそうです。
黒いマントを着たコインブラ大学の学生が行き交う景色や、学生ファドのライブハウスなどのある静かで美しい街です。

日本語になったポルトガル語は、金平糖の他にも、焼き菓子という意味の、ボーロ(bôlo)、ボタン(botão)煙草 (tabaco)、チャルメラ(charamela)、ジョウロ(jarro)など、他にもたくさんあります。
冒頭で書いた、最上等から最下等の物までという意味で使われる”ピンからキリまで”。
現地で聞いた話では、ピンはヒヨコ(Pintinho)、キリは、キリストの略だと聞き驚きました。戻って調べてみると日本の辞書は違う説明のようで、花札などのカード遊びから来た説が書かれているものがありますが、このカルタ(carta)もポルトガル語から来た言葉です。みなさんは、カルタ用語とヒヨコ、どちらだと思われますか?

ポルトガルで肩は、Ombro.(オンブロ)。赤ちゃんの”おんぶ”は、ここから。おんぶ紐は、正しくは「オンブロかけ紐」とでも呼ぶのが正しいのかもしれません。
ポルトガルの辞書には無くなったが、日本に残るものも多く、サラサ(更紗)やラシャ(raxa)、トタン屋根のトタン(tutanaga)などがあり、ポルトガルではもう使われていない言葉なのだそうです。
ラシャに関しては、12世紀ころセルビアの首都ラサで生産したことからの呼ばれたウールの織物で、16世紀半ばから17世紀初期に、東南アジアから東アジアの海域にかけて行われた貿易でポルトガルより日本へ運ばれたものです。

和服から洋服へ

日本では、日本の服を和服または、着物(古くは、呉服。店は呉服屋とまだ呼びます)、西洋的な服を洋服と呼びます。洋服は、明治時代以降1871年頃から徐々に正装着として用いられるようになり、1924年頃から女性や子供などの一般にも取り入れられるようになり、現在では、和服よりも多く日常で着られるようになりました。
16世紀あたりの日本人に描かれたポルトガル人は、服装がアラブ服であり、肩を張らせた上衣(じゅばん)はアラビア語のジュッバであり、大きくふくらんだズボンで丈が足首まであるシルワール(ハレム・パンツ)もアラブ服。当時のヨーロッパ人の衣装ではなく、彼らが途中で寄港してきたアラブ(イスラーム圏)の伝統衣装が、アジアの気候や用途にあうことから纏われていたようです。
それから考察すると、南蛮文化において宗教以外の部分はアラブ文化の要素を強く受けていたと言えます。筒を太く、裾口を狭くしたトルコの衣装、カルサン(calcao)からカルサン袴に進化し、江戸時代に武士の旅装や大工などの仕事着として独自の素材や形で進化します。
土木作業などの現場で見ることのある作業着、ニッカポッカ(現在は、鳶パンツ TOBI PANTSと呼ぶ)は、呼び名からまた別のルーツかもしれません。
ニッカーボッカーズ(英: Knickerbockers)というものは、スペイン発祥で16世紀から17世紀にかけてヨーロッパで広まり、オランダからアメリカへの移民が着用していたブリーチズと呼ばれる短ズボンから最初は呼び名を拝借したものかもしれません。

リスボンの市場改装例

リスボンのリベイラ市場は、スペインのサンタカタリーナ市場をモデルに古い市場の半分をフードコートに。スペインでの成功例を真似たそうですが、食事は新鮮なポルトガルの食材や料理が並びます。地元の方も集まる夜中まで賑やかな場で、イベントやライブなども行い、なんと週に45000人の集客に成功しています。

多くの人が利用出来る大きなトイレがあり、とにかくトイレをたくさん作れば、ツアー観光の集客が出来ることがここを視察して感じました。
そして、ただのトイレではなく、荷物が多い人でも入れる環境であったり、効果的な壁面デザインもされた居心地の良い空間で、多くの人の利用があっても不潔な印象がありません。大型バスが駐車場がなくともぞろぞろと道端で人を降ろしていきます。この市場などの改装は、日本の道の駅などに応用できる例だと思います。

BENTOやSUSHIなど、日本カルチャーも定着してますが、オクトパスドッグ(写真右)など日本でも売れそうな現地料理もたくさんあり、どこも店先に貼られた見本の写真より豪華にでてきます。注文時も「デザートは要らないの?嘘でしょ?」やら「今、生牡蠣美味しいけどね。食べれない?惜しいな!」などフレンドリーで商売も上手く、どのブースも明るく気持ちがよい。
気づけば、ヨーロッパ独自の嫌々働いている感じの人にポルトガルでは出会わない。
ヨーロッパでは、メイドさんにポルトガル人が好まれてきた歴史があり、真面目で誠実、よく働き、口が堅いと言われて来たのだそうです。昔は、出稼ぎという形で各地へ行っていましたが、EUに加盟後に出入りが自由になり移動が気軽になったそうです。リュクセンブルグには、ポルトガル人の国と言って良いほどポルトガル人が多いとか、大航海時代から近年まで世界のどこでもポルトガルの影響は簡単に探せる事から、大航海時代の軌跡が伺えます。

Mede in Portgalの洗練された雑貨たち

ポルトガル製品を専門に扱うセレクトショップ。
a vida portuguesa。
人が集まりやすい市場やアンティーク通りなどにも支店があります。Mede in Portgalを探すならこの店ですが、その他の店にも近代的な洗練されたデザインから、レトロでかわいらしいものまで、パッケージ買いしてしまう商品も多い。楽しく良いおみやげを集めることができます。
a vida portuguesaは店員さんの対応が良く、誇りあるセレクトと循環型商品は、販売する人の性格まで変えれる可能性があるのか、それともポルトガル人本来の人の良さなのか。
そして、この写真の中にある紙袋の絵。ポルトガルの人が、蓑を着ています。これは、日本の蓑にそっくりなもので、現在もポルトに近い、二箇所の産地で作られているようで作られているものでとても美しい工芸です。
これが、日本と関係のあるものか?は、また次の旅ででも調べてみたいと考えています。

現地に行くと気づく人が多いと思いますが多くの店で、ツバメの装飾や商品が多く見られます。ツバメは、渡り鳥ですが、必ず帰ってくることから、家の飾りとしてや、また会いたいと思う人へのギフトやお手紙の柄など、今でもいろいろと使われるのだそうです。

帰ってくることの象徴として愛されてきたツバメ。日本と同じように軒下についた巣も取り払わず残しておくようです。
お土産として売られている可愛らしい姿からは伝わりづらいものですが、大航海時代にたくさん人を乗せた船が大海原に出ていくこと、危険な海へ漁に出る家族のこと、出稼ぎで海外で働く家族への想い、各地で見られるツバメの飾りに込められた様々な想いは、”必ず帰ってくる”という待つ者の深い祈りの象徴でもあるのでしょう。
それらの想いを感じながら手作りのツバメの飾りを現地で手に取っていると、日本のキャラクターなどのお土産品が少し恥ずかしく思い出されてしまいます。

リスボンの街は、坂が多くトラムを使って移動しますが、観光で利用される28番のトラムは、混み合うことからかスリが多いようで、トラム内でポルトガルの女性が近寄る怪しい人影に気づいたのか、中国からの観光客に「バックが狙われているわよ。身体の前に持って、気をつけて」と教えているところを見ました。滞在予定のある方は、ご注意ください。

近年、パリなどの都市のファッションやデザイン雑貨の業界で、アジア産の安価なものづくりからヨーロッパ産を増やし、ヨーロッパ内の雇用を増やそうと言った話がよく聞かれました。
その生産をしっかり支えていたのがポルトガルで、私たちが旅に出たのもその情報からでした。ものづくりは、コツコツと手を抜かず真面目に取り組む姿、仕上がりへのこだわりが日本の感覚と似ています。服飾も服から靴などまで良質な工場と職人が揃い、ポルトなどへアトリエを移したファッションブランドもあります。パリのmerciなどを始め、ヨーロッパ各地の都市のセレクトショップやスーパーなどでも自国産のコーナーを設けています。ポルトガル産や表示がないのでわからないかもしれませんが、木工製品などでラトビアやリトアニア産のものなど、made in EUを見る機会はこの10年程で大変多くなりました。

ドロウ川の夕焼けとポートワイン

ポートワインPort Wineとは、14世紀から生産が始まりポルト港から出荷される特産のワインで、ドウロ川上流のアルト・ドウロ地区で栽培された葡萄を原料にしたものを指し、産地は最上流のドウロ・スーペリオール、中間地点で最上級と言われるシマ・コルゴ、最下流のバイショ・コルゴの3つに分かれています。
18世紀からイギリスに大量に輸出されており、イギリス文化とポートワインの関わりは深い。発酵途中にアルコール度数77度のブランデーを加えて酵母の発酵を止めることを考案したのはイギリス人の商人です。白は食前酒として。赤は、デザートワインなどで常備している方も多いのではないでしょうか。
日本では、甘いワインの印象がある方が多くいるようですが、味も香りも舌触りも、一軒のセラーでの試飲でも好みや用途に合わせて様々なものが選べます。最低3年間、樽の中で熟成されたものだけが、ポートもしくはポルトと呼ぶことができ、長いものは樽の中で40 – 50年と熟成するものもあり、そういったものはセラーの中でも鍵のかかった奥にしまわれています。ドロウ川のほとりにセラーが並び、予約を入れると見学と試飲ができます。入場料の必要なセラーもありますが、気に入ったものがありお土産に購入したところ、入場料を差し引いていただけました。
興味深かったのは、どのセラーにも過去の水害の記録が壁に記してあること。何年の何日にここまで水が来た、という記録です。
日々過ごす場所、働く場所にこのような記録が印されていることは、年号や日付を覚える目的ではなく、この辺りまで過去に水が来たという事実を把握しておくことは、いざという時の心持ちが違います。単純なようでとても重要なことだと感心しました。

ポルトでは、木がたくさんつかわれた路面電車も多く見られました。他の街でも、馬車なども見られます。
ポルトはとても東京のような近代的なデザインと、伝統的な景色が組み合わさった魅力的な都市です。
とても気に入ったレストランは、下記。サービスも味も最高です。
PURO4050
Largo São Domingos, 84
4050-545 Porto — Portugal
+351 222 011 852
PURO4050

地方都市へ行っても日本人にとっては、あまり食事でホームシックになることは少ないのではないでしょうか。ポルトのカフェでは、ビーガンエッグタルトもあり、とても美味しいものでした。

イギリスのガーディアン紙に世界の美しい本屋さんに3位で選ばれている、レロ イ イルマオン(Livraria Lello e Irmão)は、1869年に創業。入場が有料ですが、本を買えば戻る仕組みです。古い建物を保存し活かしながら維持してゆく、よいモデルです。そして、その近所では、インスタグラムでよく見られる景色。現地でたくさんの人が写真を構える観光名所になっているのかと思いきや、大型のツアーが立ち寄らない限りはどこも街は混み合うところは少なく賑やかですが、静かで気持ち良く過ごせます。

港町ーナザレ nazare

ジャックドゥミの港町シリーズの様な漁師町、ナザレ。4世紀にパレスチナのナザレから一人の聖職者がイエスに授乳する聖母マリア像を持ち込んだことが街の名前の由来です。ナザレは、旅行と言うよりもサーフスポットとしてサーファーの方がよくご存知です。冬の間は、とても静かで誰もいない浜辺を散歩できます。
次のバカンスシーズンを待つ客の居ない冬の店から聞こえる、誰も居ないと気兼ね無しで本気の鼻歌。箒を片手に歩きながらテラスの椅子を直し、サビの部分では海に向かい大熱唱。拍手は、波音。
この地方の古い民族衣装がとても可愛らしい。海の仕事をするので、裾が濡れないようにと女性のスカートの丈が短い。未婚者は7枚重ね履き。既婚者は、一枚。夫を喪うと、その後は生涯全身黒しか着ないのだそうです。下の写真は、ポルトガル生まれの写真家Artur Pastorの写真。ポルトガルの日常を美しく撮る作品が多くあります。
男性は、独自のニット帽で、Wes Andersonの映画、The Life Aquatic with Steve Zissouを思い出す。
漁に出た夫を案じて待つ歌詞のファドが多くあり、波を見て納得。砂浜に立つだけでも地響きで足がすくむような大きな波。世界のサーフスポットの中でも危険な場所として知られています。

他丘陵頂上部にあるノッサ・セニョーラ・ダ・ナザレ教会のある断崖の上から漁師町のア・プライア地区を眺めると海岸部の砂浜に蟻より小さく人が1人。これが夏になるとパラソルと人で埋め尽くされて賑やかなのだそう。
大西洋に面した浜辺の小さな二軒の建物は、リスボン地方特産のさくらんぼのリキュール、ジンジーニャ(GINGINHA)のショップと、レモネードのショップ。ジンジーニャは、アグアルデンテ(葡萄で作るブランデー)に砂糖とさくらんぼを漬け込んだもの。チョコレートで作った小さなカップで売っている場所もあり、チョコレートボンボンを食べる感覚で楽しめます。お勧めです。

子供の頃からの謎

子供の頃に本を見ながら洋菓子を作ることが多くありました。シュークリームなどを作る時は、多くの白身が余ってしまいます。そして、カステラなどの洋菓子に卵の黄身だけを使うのが、子供の頃から贅沢だなと思っていた誤解は、今回のポルトガル滞在中に晴れました。白身は、一般から修道院などまで、洗濯の糊付けに使われておりました。
レシピのうしろにある興味深い文化背景です。

2019年のMade with Japanの取り組みでは、このポルトガルとのコラボレーションを予定しております。
また、5~6月頃に予定している現地視察や取り組みなどの途中経過は、Facebookページなどへ載せて行きます。

December 7, 2017

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ポルトガルへの旅
2017

日本の西洋化の歴史に深く関わるポルトガル。同事期にはオランダやスペインの出入りや交流もあったにも関わらず、金平糖やボタン、カステラとポルトガル語から日本語になった言葉は、現在も数多く使われています。そして、ポルトガルにはなくなり日本に残るポルトガル語も。実は、現在も会話でよく使用される「ピンからキリまで」もこの時代に来た言葉。さて、この”ピン”と”キリ”。その言葉の由来をご存知でしょうか。
Text and Photo by Aki Tomura