August 5, 2018

FOLKHOOD Travel
水俣への旅
2018

日本の南西部の島、九州にある熊本県の最南部に位置する水俣市。海の幸、山の幸に恵まれ、太古から人々の豊かな暮らしの軌跡が残る土地も1956年に公表された産業活動が発生源の公害、水俣病により土地の名前を世界に知られるようになった。
長く苦しい公害の歴史を経て、2008年に国が環境モデル都市として認定されるまで。そして、これから。
未来の話を共に生み出すために通い始めました。
Text and Photo by Aki Tomura

西洋を追いかけた私たちの20世紀

豊かな大地から死の海を見下ろすまで

九州とは、北海道、本州、四国などからなる日本列島で三番目に大きな島です。
世界の島では、36位のノルウェーのスピッツベルゲン島に次ぐ37位。面積は、36,782.37km²。九州島からさらに南へ連なる屋久島や奄美大島などの島々から沖縄までを入れて九州地方と呼ばれます。
現在の福岡県、佐賀県、長崎県、大分県、熊本県、宮崎県、鹿児島県、沖縄県、8つの地方公共団体がある状態になるのは明治時代の1871年に行われた廃藩置県以降、約147年前から。それまでの古代東アジアで見られた中央集権的な統治制度であった時代は、筑前・筑後・肥前・肥後・豊前・豊後・日向・薩摩・大隅と九つに分かれていました。
さらに前へ遡る3世紀~7世紀には、筑紫国(つくしのくに)、豊国(とよのくに)、肥国(ひのくに)、熊襲国(くまそのくに)と四つに分けられており、福岡県北部を『筑豊(ちくほう)』、熊本県を『火の国(肥の国)』と呼ぶ表現は、現在でも使われています。

水俣市は、この火の国の最南部、現在の熊本県にあります。南には、鹿児島県、西には、海に面したリアス式海岸が広がりその奥には、天草の島々が見渡せます。海の幸、山の幸に恵まれた風光明媚な土地です。
熊本市内からは70km。空路での入り口は、熊本空港か鹿児島空港を利用し、そこから水俣市内まで車で一時間ほど。鉄道の場合は、2011年に開通した九州新幹線の鹿児島ルートで福岡県の博多駅から約一時間ほどで新水俣駅に到着します。

農業中心の社会から工業中心の社会へ

イギリスで18世紀に始まった産業革命以降、世界は、農業を主体としてきた社会から工業主体の社会への転換を進め、技術的・経済的変化に重点をおいてきました。それは、現在にも至ります。
1908年に、日本窒素肥料株式会社(現在のチッソ)水俣工場が開設されて以来、水俣市は同社の企業城下町として発展していきました。しかしメチル水銀を含んだ廃液を海(水俣湾)へ流し、2300人が水俣病の患者となってしまう。
水俣病の公式発見は、1956年5月1日。多くの犠牲者を出し水俣の海は「死の海」と呼ばれるようになり、「水俣」は世界的規模で知られるようになりました。
しかし、水銀の被害は、日本だけではなく、例えば19世紀の帽子工場は硝酸水銀という化合物を帽子用のフェルトを作りに使用していました。職人たちは、作業中に遊離する水銀の蒸気を毎日何時間も吸い、多くの職人が人格障害、幻覚症状、ひどい震えを患ったといいます。
この症状の時代風刺は、不思議の国のアリスに出てくる帽子屋(The Hatter)。「帽子屋のように気が狂っている(as mad as a hatter)」という、当時よく知られていた英語の言い回しをもとに創作されたキャラクターとして物語に登場します。日本での呼び方は、狂った帽子屋 (The Mad Hatter)ですが、小説の中では、その呼び方で登場することはなく水銀にまつわることだということも知られていないようです。

水俣病の症状は、中枢神経がメチル水銀で破壊され極度の痙攣の症状が出るもので、水俣では、はじめの1950年頃、猫が石垣にぶつかる、立ったり、逆立ちしてぐるぐる回る、奇声を発して海に飛び込む、といった様子が見られるようになり、その様子を住人たちは「猫踊り病」と呼び始めたそうです。その他にもカラスなどが急に死んでしまうなどの不審なことが始まり、次第に1956年頃から住人たちにも足のふらつきなどへと続き、病気の原因を知るに至ったのは1959年。

1962年にチッソ水俣工場の化学製品製造工程が原因となるメチル水銀中毒を引き起こすことが証明されましたが、工場廃液を海に排水するのをやめたのは、最初の犠牲者が出た12年後の1968年になってしまいます。

日本に限らず、工業主体の社会というものは、こういった歯止めの効かない自然界とのバランスを意図せず崩してしまうことが多くあり、現在も解決策のない様々な問題を多く抱えています。
私たちは、こういう歴史や経験、経緯を世界と共有して語り継ぎ、まずは、繰り返さないこと。責任転嫁などでやるべき本質を見失い無駄な時間や人間同士の対立を生み出さないこと、一人一人が良心を持ち見て見ぬ振りをしないこと、そして、変化を恐れず、新たな働き方、生き方を仲間と話し合い、切り開いていくことが次の仕事創りの課題だと考えています。

死の海の再生

豊富な海の幸に恵まれた不知火海沿岸では漁業が大変盛んな場所でしたが、水俣病の発生により1958年以降、禁漁となり壊滅。病気による不幸に加え同時に多くの人が生活のための仕事も失いました。

工場が排出していたのは、元素としての水銀ではありません。重金属の元素は、電子を失うと陽イオンになりますが、水銀が電子を失うと無機水銀と呼ばれるプラスの電荷を1~2個持った陽イオンが形成され、これが問題を引き起こします。
根源は水俣湾に生息する嫌気性バクテリアで、嫌気性バクテリアは、エネルギーの源として酸素ではなく硫黄を使う。バクテリアが、水俣湾の無機水銀に触れると、もっとも有毒な形態であるメチル水銀に変わるという仕組みにより病気の発生につながります。
本来、無機化合物と有機化合物は、水と油のように、混ざり合おうとしません。ですから、元々の無機水銀のイオンだけが漂っていても海底の植物はそれらを取り込むことはありませんが、バクテリアによって作られるメチル水銀は、植物が体内に吸収することができ、人間や動物に有毒になる。水銀そのものとは違い、メチル水銀はほとんどすべて胃腸で吸収するものになり、海底の植物から魚への食物連鎖により有毒になっていきます。

上記写真は、山側の川の様子で、有機物の溜まった場所の土の匂いを嗅がせていただいた時の写真です。
根源となった嫌気性バクテリアも水俣だけにあるものではなく、有機物が多い川の中の有機物が分解されてできるものです。流れの悪い川の曲がりくねる場所には有機物が溜まり、硫黄が嫌気性バクテリアによって還元され硫化水素が発生し硫黄のような臭い匂いが発生します。海の環境を考えると、こういう山側のヘドロの掃除なども大切になることを教えていただきました。

事故後の海の再生は、水銀値の高い汚泥がたまったエリアを厚い鋼板で囲う形で海を仕切り、そこに水銀値が比較的低い沖合の汚泥を浚渫(しゅんせつ)して埋め立て、さらに、その上に汚染されていない山の土で覆い、汚染のあった海は58ヘクタールという広大な埋立地となり、当時小学生だった子供たちが各自家の庭や山から持ち寄ったドングリなどの種を植えました。現在は、それらの種は立派な木立となり夏場には心地よい木陰を生み出しています。この場所は、公園としてスポーツをする場所として多くの人が利用する場として一年を通して多くの人々に活用されています。
水銀を含む汚泥は、現在ももそのまま地下に眠っており、「後世に大きな負の遺産を残したままでは、水俣病の教訓を生かすことにならない」と埋め立て地の水銀汚泥を掘り起こし浄化することができる技術や試算などが話し合われるなど、今でも取り組みは終わっていない。
埋立地の端から八代海に浮かぶ恋路島を眺め、「昔は、そこの恋路島はもっと遠くに見えていたけど、埋め立てたから近くなったのよね」と年配の方が話されていました。
水俣湾内の汚染魚介類の流出を防ぐために設置されていた仕切り網も、1997年に安全が確認されて全面撤去されました。しかし、この水俣病は地域社会の人間関係にも大きな傷を残しました。

William Eugene SmithによりMINAMATAは世界へ

ユージーン・スミスは、アメリカのフォトジャーナリスト。LIFEの写真家として、1957年からは業績から世界的写真家集団マグナム・フォトに数年在籍。ジャーナリズムの在り方にこだわり、雑誌を売ることを目的とする編集者とは徹底的に戦い貫いた人です。
水俣の事件を知り、1971年9月、妻のアイリーン・美緒子・スミスとともに3度目の来日で水俣に滞在、その後の三年間、水俣の人々の姿を通して実態と経過を写真に記録し、1975年に写真集「MINAMATA」を世界へ向けて発表しています。
ユージン・スミスの記録は、1996年の冬に恵比寿の東京都写真美術館で「ユージン・スミスの見た日本」として東京でも展覧会が行われ、この展示会では、日本においての活動に 焦点をあて「第二次世界大戦」、「日立」、「水俣」の3つの作品群が構成されました。
水俣で録音された音声にユージーンのメッセージが残っています。
「なぜ、外国人のあなたがこの水俣にいるのか?なぜ、この事件に関わるのかとあなたたちは、尋ねます。私は、外国人とみられるが、この水俣で起きていることに私は、外国人として関わってはいない。私自身のため、妻のため、子供たちのため、水俣の住民のため、世界全体のために ここにいる」

患者を通して、本来の生まれもった姿ではない状態に、そして、本来希望に満ちて歩むはずであった人生を壊されてしまった人間から語られる、声無き声を撮るために費やした水俣での3年。しかし、それを伝えられる写真は最後まで撮れなかったこと、患者さんを想う気持ちが涙とともに記録に残されています。
写真集に綴られたユージーンの言葉には、ドキュメント制作における二つの責任についてが綴られています。

一つは、被写体における責任。もう一つは、写真を見る者への責任がある

撮ることで患者を傷つけているのではないか。また公表することへの責任の重さを彼の仕事、人生から学ぶことができます。ジャーナリストとして声なき言葉を探し求めたユージーン・スミスと妻のアイリーンの軌跡は、現在も様々な形で検索することができます。これらの様子は、2018年にNHKドキュメント「写真は小さな声である~ユ―ジン・スミスの水俣~」にも記録されています。
私たちは、果たして「世界全体のために」と彼が命をかけて記録した真実をきちんと受け止め、教訓として活かしているだろうか。
水俣の事故から62年後、また私たちは東北の震災で多くの命や土地を失い、関東でも節電といった形で暗い夜を過ごしましたが、現在はその経験を忘れたかのように無駄に明るい街並みへ戻ろうとしてはいないか。
少なくとも水俣の人々は、過去の経験を忘れる事なく、次の生き方を常に模索して生きているように見えるのです。

食に対する不幸な経験から再び豊かさを取り戻すまで

海から山へ場所を移すと、海辺でおきた18世紀のイギリスに始まる産業革命の波にのまれた工業化とは全く違う時間と生活が守られていました。
海を背に山へ向かうと、縄文時代から続いてきた古い水俣の暮らしを見ることができます。
岩の多い山々が連なる山岳地では、長い年月をかけて西日本独自の石積みの棚田を開拓してきました。日本でも大変少なくなった石積みの棚田を見渡すことができる田園風景が現在でも水俣には多く残ります。
しかし、急斜面で狭い面積の棚田のために耕運機などの機材が入らず、現在も手植え、手刈りの畑が多く、高齢化とともに放置される田んぼが多くなっているとのこと。何百年も続いてきた景色が、過疎化と共に数年で変わることが心配されています。
石積みも石の隙間に草や木が生えると崩れやすくなることから、草刈りで高い場所にも足をかけて手が届く様に法面をまっすぐ平面にせず、ところどころに突起状の足場をつけた珍しい構造がこの地方の特徴です。しかし、多くの石積みには草が生えている。
他にも石積みの壁は、湧き水を家の敷地内に取り込み、農業用、炊事用、洗濯と場所を変えて無駄なく利用する水場なども作られています。江戸時代に作られたものが今でも使用可能です。
まだ、現在も石工の職人がおり、どのように杭を打ち込めば、どのように割れるかを完全に把握している熟練の技を持つそうです。

山側の生活は、時間を巻き戻したかの様な伝統的な手法でカニやウナギなどを獲り、日々の食卓を豊かにしています。私たちも毎回季節により様々な山の幸を分けていただき、昼も夜も、食卓を囲む時間は大変賑やかです。
太陽が沈むと共に森は、当たり前に墨を流したような漆黒の夜に包まれます。よく笑い、よく飲み、よく食べる。
そして、水俣市街地から約8km山間へ入った湯治場である湯の鶴温泉のTojiya(ゲストハウス)さんの温泉につかり眠るのが私たちの滞在中の過ごし方です。
この川や森、畑や庭から通貨を介さず直接台所へ素材が直接届くこと、自然と食卓の近さこそ本当の豊かさであるということを、私たちは、水俣での滞在で経験しています。
食の安全に怯えた町の経験が再び豊かさを取り戻すまで。
事故から約40年ほどの歳月が過ぎ、現在はこの様な豊かな暮らしが営まれています。

100年続く仕事の創造を目指して

公害の街として世界に知られた土地、MINAMATA。現在も繁華街を中心に工場で働く人々も多くいますが、先祖代々の土地を守り、土に近い農業を営む方々も多くいます。風評被害に悩まされつつも、農業では、農薬を使わないオーガニック栽培などでの野菜やお茶などの生産が始められ、再び日本国内で認知されるようになってきました。

それらは、単純に売るためというよりも、この土地に住む人々が突きつけられて向き合った人生観が根底にあります。
何を目的に人と自然が結びつき、どのように生きるかと言う問いから自然に導き出された答え。それを共有する強い絆で結ばれた人々により緩やかに発信されています。

よく、江戸時代の生活に戻るのが環境問題解決になると聞きますが、私たちは、昔に戻ること、戻すことが解決策だとは考えることはあまりありません。
水俣で起こった不幸は、今後も工業化を進めて行く世界中の街で再び起きてしまう可能性があります。不幸にも事故が起きてしまった時、最終的に解決策を導き出すのは、人間の一人一人の良心であることを水俣からも学ぶことができます。
貨幣経済の景気循環などによる失業問題、都市と農村との乖離、世界が抱える現在の様々な現代の問題の縮図をこの水俣へ投影しながら、次の一歩を仲間達と話し合っています。

私たちは、次年度2019年のMade with Japanの取り組みを、この水俣とポルトガルのコラボレーションに決め、準備を進めています。
一歩づつでも仲間たちとできることから前進を。
常に先人や専門家に学び、時代に合わせてより良い環境創造をしてゆきたいと考えています。

ユージーン・スミスの代表作である「楽園への歩み」の写真には、”君たちの歩むその足元から新しい世界がはじまる”というメッセージが書き込まれています。
国を超えて、次世代の居場所と出番を生み出せる次の働き方を探しながら、世界が知らない”その後のMINAMATA”の姿を生み出し続けていければと考えています。

August 5, 2018

FOLKHOOD Travel
水俣への旅
2018

日本の南西部の島、九州にある熊本県の最南部に位置する水俣市。海の幸、山の幸に恵まれ、太古から人々の豊かな暮らしの軌跡が残る土地も1956年に公表された産業活動が発生源の公害、水俣病により土地の名前を世界に知られるようになった。
長く苦しい公害の歴史を経て、2008年に国が環境モデル都市として認定されるまで。そして、これから。
未来の話を共に生み出すために通い始めました。
Text and Photo by Aki Tomura